(9) 主な仏師





1. 鞍作止利
(生没年未詳)
(1) 飛鳥時代の仏師。 司馬達等の孫といわれる。
(2) 飛鳥寺の丈六仏(飛鳥大仏)や法隆寺金堂の釈迦三尊像の作者。
(3) 日本最初の本格的な仏師で、中国の北魏様式の流れをくみながら、いっそう洗練
  された作風は、止利様式とよばれる。
作例:
飛鳥寺(飛鳥大仏)、
法隆寺金堂(釈迦三尊像)
2. 定朝
(1057年没)
(1) 定朝は従来の一木造から部分ごとに数材の木を寄せて像身を組み立てる寄木造
  という新しい技法を確立した。各パーツを分業により作成することで仏像の大量生産
  と大型化が可能となった。
(2) また仏師相互の専門的集団組織としての仏所を確立し大仏師,小仏師などの制度
  を整備した。
(3) 定朝様と呼ばれる円満な表情と優美な姿で 独自の作風を切り開き長く日本の彫刻
  の規範とされている 。
(4) 多くの造仏に従事したが1053年の平等院鳳凰堂本尊阿弥陀如来坐像が、定朝
  唯一確実な現存作品となる。。
作例:
平等院鳳凰堂(阿弥陀如来)
3. 円派
 三条仏所
(長勢開設)
(1) 定朝の弟子長勢が京都三条に開いた仏所。円勢・長円(同人)、賢円、明円などの
  名手が輩出。この派の仏師に円の字を用いる者が多いことから後世円派と称する。
(2) 穏健な作風と伝統的な古様を特色とし京都を中心に11、12世紀を通じて大いに
  活躍した。
(3) 鎌倉時代に入って慶派が台頭すると1199年大仏師明円の死後は名匠に乏しく、
  慶派にその地位を譲る。
作例:
長勢(別掲)
円勢・長円(仁和寺薬師如

賢円(安楽寿院阿弥陀如
来)
明円(大覚寺五大明王)
4. 院派
@七条大宮仏所
(院助開設)
A六条万里小路
仏所(院朝開設)
(1) 覚助の弟子院助が七条大宮に、その分派の院朝が六条万里小路に仏所を開いた。
  院の字を付する仏師が多いので、院派とよばれる。
(2) この派は院助、院覚、院尊らの活躍もあって、一時は造仏界に君臨する勢いをも示
  した。その作風は和様彫刻の流れをくみ貴族層の支持があった。
(3) 御用仏師としての側面も強く、仏像に製作者の銘記がないのも特徴。
(4) 南北朝時代にはいち早く室町幕府と結びつき、再び台頭した。
作例:
院覚(別掲)、
院尊(長講堂阿弥陀三尊
院吉((法金剛院十一面観
音)
5. 慶派
 七条仏所
(覚助開設)
(1) 定朝の子覚助に始まり、その子頼助から奈良に移り、鎌倉時代に入って康慶、運慶、
  快慶、湛慶らの名工を生んだ。
(2) 康慶以後,名に慶の字を用いるものが多いので 慶派ともよばれた。
(3) のちに京都七条に仏所を構えたので、七条仏所と名づけられている。
作例:
覚助・康慶・運慶・快慶・定
慶・湛慶(別掲)、
康弁(興福寺天燈鬼・龍燈
鬼)
康正(東寺金堂薬師如来
6. 奈良仏師
定朝正系五代
(覚助・頼助・康助
 康朝 ・成朝)
(1) 七条仏所の創設者の覚助の子が頼助で孫が康助。頼助は興福寺を中心に活躍した。
(2) 孫の康助は、京都に主たる活動の場を置いた。
(3) その子の康朝 は異質で革新的な仏像を製作した。
(4) 康朝の子が成朝で弟子が慶派の康慶。
(5) 成朝は1185年に源頼朝の招きで鎌倉の勝長寿院、永福寺(各廃寺)の阿弥陀如来
  像の制作に当る。成朝の東下りは慶派の運慶と鎌倉を結び付けた。
(6) 奈良仏師の定朝正系は六代目成朝で途絶え、傍系の康慶、運慶等が慶派の主流
  となった。
作例:
覚助(別掲)、
康助(北向山不動院不動明、
金剛峯寺谷上大日堂旧在
(大日如来像)、三十三間堂
千手観音160、919号)
7. 長勢
 定朝二代目
(1091年没)
(1) 三条仏所(円派)の始祖で、定朝の弟子。兼慶、円勢の父。1065年法成寺金堂造仏
  の功で法橋、1070年円宗寺の造仏により定朝の子覚助とともに法眼に叙せられる。
(2) 覚助なきあとの定朝工房を支え、11世紀後半における造仏界で第一人者として活躍
  した。
(4) 1077年には法勝寺金堂・講堂・阿弥陀堂の造仏の功で、僧綱最高位の法印を与え
  られた。
作例:
広隆寺(日光・月光菩薩
十二神将像)
8. 覚助
 定朝二代目
(1077年没)
(1) 定朝の子。七条仏所(慶派)の創設者、1059年の法成寺の造仏をはじめ,平等院塔の
  五智如来像を造り,1067年興福寺の造仏事業の賞として法橋になる、
(2) 1070年円宗寺の造仏の功により長勢とともに法眼となる。そのほか法性寺,法勝寺
  などの仏像を造る。
(3) 師である定朝に義絶されるも、左近衛府に献ずるため定朝が作成していた陵王の面を
  留守の間に自ら手直しし、勘当が許されたエピソードがある。
作例:
大蓮寺(薬師如来)(推定)
9. 院覚
 定朝から四代目
(1136年没 )
(1) 院助に続く院派の二代目。 1114年関白の藤原忠実が発願した阿弥陀如来像を造立
  する。
(2) 1120年に忠実が関白から失脚すると連座して一線から退く。
(3) 1127年に行われた日野新堂の仏像修理に参加し活動を再開する。1130年待賢門院
  発願の法金剛院の造仏に参加し法橋に昇進、
(4) 1132年には仏師として当時最高位の法眼位まで昇進。
 
作例:
法金剛院(阿弥陀如来)
10. 康慶
 定朝から六代目
(1196年前後没)
(1) 大仏師定朝の六代目であり運慶の父。天平彫刻の古典にならって新たな写実的
  作風を提示し鎌倉様式の基礎を確立する。
(2) 1180年平重衡の南都焼き討ち後の復興造仏の中心人物として活躍し慶派の基礎
  を築いた。
作例:
興福寺南円堂(不空羂索観
音・法相六祖)、
興福寺中金堂(四天王像)等
11. 運慶
 定朝から七代目
(1223年没)
(1) 定朝の六代目である奈良仏師康慶の子。当時は京都に根拠を置く院派、円派が
  強く、奈良の慶派は振るわなかった。
(2) 運慶は復古的な作風を基礎として,新しく剛健で,写実に徹した彫技を作品に取
  り入れ関東武士に活躍の場を求めた。
(3) 壮年期には奈良の興福寺の造仏に努めた。
作例:
円成寺(大日如来)、願成就
(阿弥陀如来等)、浄楽寺
(阿弥陀三尊等]、金剛峰寺
(八大童子)、興福寺北円堂
(弥勒如来無著・世親像)、
東大寺南大門(金剛力士像)
等約30体が現存する。
12. 快慶
 定朝から七代目
(1236年前後没 )
(1) 運慶の父康慶の弟子といわれ運慶とならんで鎌倉時代の彫刻界を代表した。
(2) 熱心な阿弥陀信仰をもち、 優美な作風は安阿弥様式とよばれ後世の仏像彫刻に
  おおきな影響をあたえた。
(3) 法名は安阿弥陀仏。
作例:
ボストン美術館(弥勒菩)、
醍醐寺三宝院(弥勒菩薩)、
東大寺(南大門仁王像)、
浄土寺(阿弥陀三尊)、
東大寺(僧形八幡神)、
東大寺公慶堂(地蔵菩薩)、
光台院(阿弥陀三尊など約
30点がある。
13. 定慶
 定朝から七代目
(没年未詳)
(1) 定慶は、12世紀後半の慶派仏師。作風から康慶の弟子という説が有力。
(2) その活動が興福寺内に限定されていることから、興福寺専属の仏師だったと想像
  される。
(3) 康慶の作風の延長上にある高い写実表現を持ち、運慶にも匹敵する実力がある。
作例:
興福寺(東金堂維摩居士
梵天金剛力士)
根津美術館(帝釈天)
14. 湛慶
 定朝から八代目
(1256年没)
(1) 父運慶の後継者として七条仏所を率い多くの造仏に従う。
(2) 技量は運慶に及ばなかったが,堅実で温和な作風が特色。
(3) 1256年東大寺講堂(焼失)の千手観音像造立中に没した。
作例:
雪蹊寺(毘沙門天三尊像)
三十三間堂(千手観音)