(9) 主な仏師





鞍作止利:
(生没年未詳)
飛鳥時代の仏師。 司馬達等の孫といわれる。 飛鳥寺の丈六仏(飛鳥大仏)や法隆寺金堂
の釈迦三尊像の作者。 日本最初の本格的な仏師で、中国の北魏様式の流れをくみながら、
いっそう洗練された作風は、止利様式とよばれる。
定朝:
(1057年没)
定朝は従来の一木造から部分ごとに数材の木を寄せて像身を組み立てる寄木造という新し
い技法を確立した。各パーツを分業により作成することで仏像の大量生産と大型化が可能
となった。また仏師相互の専門的集団組織としての仏所を確立し大仏師,小仏師などの制度
を整備した。
定朝様と呼ばれる円満な表情と優美な姿で 独自の作風を切り開き長く日本の彫刻の規範と
されている 。多くの造仏に従事したが1053年の平等院鳳凰堂本尊阿弥陀如来坐像が、定朝
唯一確実な現存作品となる。。
円派:三条仏所
(長勢開設)
定朝の弟子長勢が京都三条に開いた仏所。円勢・長円(同人)、賢円、明円などの名手
が輩出。この派の仏師に円の字を用いる者が多いことから後世円派と称する。穏健な作
風と伝統的な古様を特色とし京都を中心に11、12世紀を通じて大いに活躍した。
鎌倉時代に入って慶派が台頭すると1199年大仏師明円の死後は名匠に乏しく、慶派に
その地位を譲る。
現存作例:長勢(別掲)、円勢・長円(仁和寺薬師如来)、賢円(安楽寿院阿弥陀如来)、
明円(大覚寺五大明王)
院派:
@七条大宮仏所
(院助開設)
A六条万里小路仏所
(院朝開設)
覚助の弟子院助が七条大宮に、その分派の院朝が六条万里小路に仏所を開いた。
院の字を付する仏師が多いので、院派とよばれる。この派は院助、院覚、院尊らの活躍
もあって、一時は造仏界に君臨する勢いをも示した。その作風は和様彫刻の流れをくみ
貴族層の支持があった。御用仏師としての側面も強く、仏像に製作者の銘記がないのも
特徴。南北朝時代にはいち早く室町幕府と結びつき、再び台頭した。
現存作例:院覚(別掲)、院尊(長講堂阿弥陀三尊)、院吉( 法金剛院十一面観音 )
慶派:七条仏所
(覚助開設)
定朝の子覚助に始まり、その子頼助から奈良に移り、鎌倉時代に入って康慶、運慶、快慶、
湛慶らの名工を生んだ。康慶以後,名に慶の字を用いるものが多いので 慶派ともよばれた。
のちに京都七条に仏所を構えたので、七条仏所と名づけられている。
現存作例:覚助・康慶・運慶・快慶・定慶・湛慶(別掲)、康弁(興福寺国宝館天燈鬼・
龍燈鬼)、康正(東寺金堂薬師如来)
奈良仏師:
定朝正系五代
(覚助・頼助・康助 ・
 康朝 ・成朝)
七条仏所の創設者の覚助の子が頼助で孫が康助。頼助は興福寺を中心に活躍した。孫の
康助は、京都に主たる活動の場を置いた。その子の康朝 は異質で革新的な仏像を製作した。
康朝の子が成朝で弟子が慶派の康慶。成朝は1185年に源頼朝の招きで鎌倉の勝長寿院、
永福寺(各廃寺)の阿弥陀如来像の制作に当る。成朝の東下りは慶派の運慶と鎌倉を結び
付けた。奈良仏師の定朝正系は六代目成朝で途絶え、傍系の康慶、運慶等が慶派の主流
となった。 現存作例:覚助(別掲)、康助(北向山不動院 不動明王坐像 、金剛峯寺谷上
大日堂旧在の大日如来像、三十三間堂 千手観音160、919号)
長勢:定朝二代目
(1091年没)
三条仏所(円派)の始祖で、定朝の弟子。兼慶、円勢の父。1065年法成寺金堂造仏の功
で法橋、1070年円宗寺の造仏により定朝の子覚助とともに法眼に叙せられる。覚助なき
あとの定朝工房を支え、11世紀後半における造仏界で第一人者として活躍した。1077年
には法勝寺金堂・講堂・阿弥陀堂の造仏の功で、僧綱最高位の法印を与えられた。
現存する作品としては1064年に作造した広隆寺の日光・月光菩薩および十二神将像が
上げられる。
覚助:定朝二代目
(1077年没)
定朝の子。七条仏所(慶派)の創設者、1059年の法成寺の造仏をはじめ,平等院塔の
『五智如来像』を造り,1067年興福寺の造仏事業の賞として法橋に、1070年円宗寺の
造仏の功により長勢とともに法眼となる。そのほか法性寺,法勝寺などの仏像を造る。
師である定朝に義絶されるも、左近衛府に献ずるため定朝が作成していた陵王の面を
留守の間に自ら手直しし、勘当が許されたエピソードがある。
現存作としては 大蓮寺薬師如来像が推定されている。
院覚:定朝から四代目
(1136年没 )
院助に続く院派の二代目。 1114年関白の藤原忠実が発願した阿弥陀如来像を造立
するが、1120年に忠実が関白から失脚すると連座して一線から退く。1127年に行われ
た日野新堂の仏像修理に参加し活動を再開する。1130年待賢門院発願の法金剛院の造
仏に参加し法橋に昇進、1132年には仏師として当時最高位の法眼位まで昇進。
現存作は 法金剛院阿弥陀如来坐像がある。 
康慶:定朝から六代目
(1196年前後没)
大仏師定朝の六代目であり運慶の父。天平彫刻の古典にならって新たな写実的作風を提示
し鎌倉様式の基礎を確立する。 1180年平重衡の南都焼き討ち後の復興造仏の中心人物と
して活躍し慶派の基礎を築いた。
主な作品は興福寺南円堂不空羂索観音、法相六祖、興福寺中金堂四天王像等が上げられる。
運慶:定朝から七代目
(1223年没)
定朝の六代目である奈良仏師康慶の子。当時は京都に根拠を置く院派、円派が強く、奈良
の慶派は振るわなかった。運慶は復古的な作風を基礎として,新しく剛健で,写実に徹し
た彫技を作品に取り入れ関東武士に活躍の場を求めた。壮年期には奈良の興福寺の造仏に
努めた。
作品は円成寺大日如来、願成就院阿弥陀如来・不動・毘沙門天像、浄楽寺阿弥陀三尊・不動
・毘沙門天像、金剛峰寺八大童子像、興福寺北円堂弥勒如来・無著・世親像、東大寺南
大門金剛力士像等約30体が現存する。
快慶(定朝から七代目
(1236年前後没 )
運慶の父康慶の弟子といわれ運慶とならんで鎌倉時代の彫刻界を代表した。熱心な阿弥陀
信仰をもち、 優美な作風は安阿弥様式とよばれ後世の仏像彫刻におおきな影響をあたえた。
法名は安阿弥陀仏。
現存する作品はボストン美術館弥勒菩薩、醍醐寺三宝院弥勒菩薩、 1203年運慶らと合作の
東大寺南大門仁王像、浄土寺阿弥陀三尊像、東大寺僧形八幡神像、東大寺公慶堂地蔵菩
薩、
光台院阿弥陀三尊など約30点がある。
定慶 :定朝から七代目
(没年未詳)
定慶は、12世紀後半の慶派仏師。作風から康慶の弟子という説が有力。 その活動が興福寺
内に限定されていることから、興福寺専属の仏師だったと想像される。 康慶の作風の延長
上にある高い写実表現を持ち、運慶にも匹敵する実力がある。代表的な作品には興福寺東
金堂の維摩居士坐像、梵天、金剛力士、根津美術館の帝釈天像が上げられる。
湛慶:定朝から八代目
(1256年没)
父運慶の後継者として七条仏所を率い多くの造仏に従う。技量は運慶に及ばなかったが,
堅実で温和な作風が特色。代表的な作例としては雪蹊寺毘沙門天三尊像 、三十三間堂の
中尊千手観音像などがある。1256年東大寺講堂(焼失)の千手観音像造立中に没した。